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「江戸城・天守閣再建支援活動を行い、完成の暁には皇居を世界遺産とする」

を掲げ、活動の開始の決議をしました。

★サンライズ・グローバル・ジャパン(SGJ)が、何故? TOKYO&IIDAなのか。

渡邉文応氏の記憶をひもとけば、昭和45年の秋に長野県飯田市で「江戸城天守閣図版木」 が発見されました。
ただし、当時は地方新聞の「南信州」に記載されたのみで何の動きもなく水の泡のごとく 一瞬に消え去りました。
しかし、平成19年秋に、版木の再発見により今日的意義の模索が始まりました。

今にして思えば!

飯田市馬場町にA氏が営む「天龍堂」という、間口二間、奥行五間の骨董店がありました。
文応は書画骨董が好きで天竜堂へ10日に一度は親父(A氏)の顔を見て話を聞くのが楽しみでした。そんなある日、
「コンチワ、何か面白いものあるかな?」
「いつもとそんなに変わってないに、まあ、お茶でも飲んでいきなんよ。」
店内を見渡したが親父のいうように真新しいものは無さそうだったので、いつもの古九谷の茶碗で喉を潤しながら、なにとはなしに足元が気になった。
「あれ!親父さん。こんは一体なんだな?」
「ああ!それかな。版木だけれど、なんだかな?? 良かったらもつていきなんよ。」
いつもの調子で ー
「じゃあ、貰っていくに、お金は無尽のときまで待ってな。」
しかし何かが気になって
「親父さん、誰がこんな物を持つてきたんな?」
「ああ!それかな。上郷だか?座光寺だか?忘れちまったが、若かったな。小遣いが欲しいんで持ち込んできたんな。何だか、親父さんが東京都文京区神田の本屋の解体工事に行っていたときに、屋根裏の棟木のところに一緒にあったものを持ち帰ってきた物のだが、親父も死んでしまったので、何だかわからんが小遣いにしたいって置いて行ったんだに。」


新聞紙に包むのをやめて、版木を素手で抱えて持ち帰った。
床の間に無造作に置いて、暫く見たがそれ以上の関心も持たずに三ヶ月ほど経ったある日、MY君が突然訪ねて来た。
彼が訪ねてくるということは、また何かの難問をもって来たのでは無いかと内心思いながらも話は弾んだ。MY君とは、小学校からの同級生で、あのときは、飯田市役所労組の委員長として活躍していた時だった。
「労組に首を突っ込んでしまったが、問題は山積しているし、いろいろだが、何しろ一番困った問題は、予算が思うに任せれない、事務局も立ち上げ回り出したのだが、鉄砲玉が無いことにはいかんともし難い。なんとか打開策としての妙案はないものか。」
「組合員の駐車場の確保、市役所の会場施設に自動販売機を置くといいんではないか?」
と、思うに任せて話を進めていた、そのとき!? 何故だか、どうしてだか、なんだか解らないが!?二人は偶然、
「オイオイ、これだ!これでなんとかならないものか?」
と、床の間に放って置いた「版木」を目の前におき、腕を組んだ。
「MY君 今日のところは、これを持つて行って刷って見ないことには、なんだか解らないのだから、とにかく刷ってみて欲しい。」
と言うことで、彼が持ち帰った。
何日かが経った。
「刷れました。」
自慢げで、笑みを浮かべて、版木摺が台の上に置かれた。
「オイオイ、見事に摺りあげたなあ。どうやって摺った!」
「俺らでは無理なんで、教育委員の会員の中に元美術の先生がいたので刷ってもらってな。」
「ああ!良かった良かった摺りあがった。」


二人でじっと天守閣図を見ていたのだが、おのずと二人は同じ疑問にぶち当たっていた?
「摺りあがったのはいいけれども、これは飯田の城に有った建物かな??」
版木の細かく書き込まれている文字を追って見るのだがチンプンカンプンである。兎に角余りにも何も知らなさ過ぎた。出た結論は、
「どうも此れは、飯田の城のものでは無いから、手分けして何処の物かをはっきりしよう、それからでないと仕方ないよ!」
MY君と目を見合わせて「ウン・ウン」と確認するしか無かったのだが!今にして思えば!まさにこの時が、開けてはならない「パンドラの箱」を開けてしまったのだと言う事に気が付く筈は無かった。この版木は一体何処の天守閣なのだろうか?と言う事から取り掛かりました。飯田城の図面を図書館で参考に調べたが、一目瞭然で駄目でした。それでは松本城か?此れも駄目。名古屋城か?と、近隣の天守閣を片っ端から当たって見たものの、全てが該当せず頓挫してしまいました。
そのとき、飯田市知久町一丁目のTY氏が飯田青年会議所の先輩として、良きにつけ悪しきにつけ協力して頂いていた中でTY氏の飯田高校の同年で有った、朝日ジーナル「消えた村落」で活躍中のEN氏のご縁により、東京都新宿区西新宿の工学院大学学長である伊藤鄭爾先生の紹介を受けました。
早速、TY氏と上京し朝日新聞本社でお会いし、EN氏の先導で案内されて大学の学長室に入りました。緊張していた私たちを、物静かに暖かく受け入れてくださいましたので、今までの経緯を思う存分に説明する事ができました。
「心当たりがありますから、調べて結果を報告致しましよう。」
と言うことで、これより「いかなる天守閣の版木であるか」のご指導を受けることとなりました。
昭和51年秋に、伊藤先生が突然お一人で飯田に来られ数時間版木を前にして有意義な時間を過ごしました。
「現在までわが国における構築図の版木は、日光東照宮の塔と京都御所の二箇所に存在すると言われているが、未だ公開されず明らかではありません。この版木を加えれば、私の知る範囲では三つめで、これをこうして見る事のできる事は驚きです! 早速調べて見ます。」
数々の話の中で先生は不思議な言葉を私に残してくれました。
「人は本当の物を持つと、君自身も本物にちかずく努力をする様になるから、この版木を大切に保管してください。」
と言われ、色紙に「秘するは、花なり。」と利休の言葉をしたためて下さいました。
30有余年を経て先生のお言葉が「なるほど」と納得できる歳月の流れでした。
飯田駅までお見送りの際、少し時間があるからコーヒーでも飲もうと、中央道り2丁目のホテルサカエの喫茶で喉を潤していると、知り合いの信南交通kkの長沼計司さんが入って来られたので挨拶をすると、なんと私たちに、ではなく
「先生 久しぶりですね。お元気そうで。」

エッ! これは一体どう言う事なのだ!一日同席したTY氏も理解に苦しむ場面の出現でした。四人同席してお二人の話を聞いて、二重の驚きでした。
お二人は若かりし頃、結核を病み療養のために北信の保養所で一緒に時を過ごし別れた。
何十年経つか?あれから始めての出会いだと言う。
これは一体なんたる事か理解に苦しんで、ただただお二人の思い出話の中に引きずりこまれていたが、電車の時間が来たので駅まで案内した。
飯田駅から東京新宿駅まで急行で8時間かかるのに、先生は満足そうな笑顔で、
「上京したら連絡ください。」
と、おっしゃって車中の人となりました。……
時間が経つて解ったことですが、今は亡き長沼計司氏とEN氏はご兄弟で、現在のNPO-SGJ本部と長沼計司氏宅と土続きの関係です……
翌 昭和52年3月に伊藤鄭爾先生より「城絵図について」のお便りが届きました。これが「慶長12年(1607)に起工し、明暦3年(1657)焼失した江戸城天守閣の図である。」と、確認できたときの驚きと、何故 「このような物」が、「今ここに」という不思議さと同時に、墨で黒ずんだ一枚の桜の木の虫食いの板っぺらが、なんと貴重な物であるのか! と言うことを認識したのです。

 
   
   
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